『東別院』は戦国武将に絡む土地柄だった件

郷土史
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・都会の街中にある寺院

晴天の中、母方の祖父、祖母、叔父の眠る東別院に出かけました。
本当は自転車で出掛けたかったのですが、腰痛が完治していないので今回はマイカー。
今回は名古屋市中区にあるこの東別院についてちょっと調べてみました。

東別院本堂と銅燈籠(中央)

今ある本堂や山門、鐘つき堂などは元々1600年代から1700年代にかけての歴史ある建造物だったらしいのですが、先の戦時中に空襲で焼けてしまい今あるものは戦後の昭和40年代に再建されたもので、迫力はそれなりにありますが歴史的価値はあまりありません。
但し、焼け残った鐘楼は「元禄5年(1692年)鋳造」との銘文が刻まれ名古屋市の指定文化財に指定されています。

鐘楼

・戦国武将に絡む土地柄だった

さすがに三英傑ゆかりの地、ここ東別院も戦国武将の影が見え隠れする土地柄でした。

古渡城碑

ここ東別院のある地は、その昔「古渡城(ふるわたりじょう)」というお城があった跡地。
その旨を示すように、山門から入り左手の所に石碑と説明看板が立ててあります。
説明看板によると、この古渡城は信長の父である織田信秀が天文11年(1541年)に築城した城で周囲にはお堀が二重に巡らされていたそうです。
築城6年後信秀は同市千種区に末盛城を築城しこの城は廃城。
Wikipediaでは築城は天文3年(1534年)とありますがどちらが正解なのでしょうか…どちらにしてもこのお城の寿命は短かったようです。
(また後日、この末盛城についても調べてみようと思います)
城の規模としては東西140m、南北100m、14,000m2の平城と言う事ですから敷地だけの比較ですが、33,800m2の名古屋城の半分に満たないサイズだったようです。

日常何気なく訪れていた場所が意外に歴史的な要地だったってことが他にも色々ありそうです。
早速この郷土にあった城について調べてみたいと思います。

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